ラブクラフトの名作短編を紹介する本コーナー、第五回は『銀の鍵』をご紹介します。基本的にこれまでは一般的にラブクラフト作品として有名どころ、また名作として名高いものを紹介してきましたが、ここで少し、個人的な趣味に寄った短編をご紹介させて頂きます。
超有名というほどでもなく、『クトゥルフの呼び声』などの有名作に比べれば知名度はかなり落ちてしまう本作ではありますが、しかし個人的には、これこそラブクラフトの真髄だと言える短編だと信じて疑いません。
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あらすじ
かつて『夢の国』に自由に行き来することができた主人公、ランドルフ・カーター。しかし、年を取るにつれてその自由は失われつつありました。多くの本を読む夢想家であった彼は、大人になるにつれて現実との摩擦にすり切れ始めていたのです。本当の自分を隠して、回りの人が期待するような大人として振る舞うようにするランドルフ・カーターですが、それも上手くいかず摩耗していきます。
ある日、彼の夢の中に死んだはずの祖父——彼の一番の理解者が現れます。そして、ある『鍵』の存在を彼に告げるのでした。どういうわけか見覚えがあるような気がするその『鍵』を手に、彼は故郷に戻るのですが——。
要約不能の物語と美しさ、そして結末
代表作である『クトゥルフの呼び声』がそうであるように、ラブクラフト作品の中には要約が非常に難しいものも多く存在しています。物語のどこを切り取っても、切り取った瞬間にそれは意味を成さない破片になってしまう。まるで、生きた人間から四肢を切り取ったとしても、それは既に死んだ一部にしかならないように——。この銀の鍵もまた、そういった作品であると言えるでしょう。
私がこの物語をラブクラフトの掌編の中でも一番のお気に入りに置いているのは、その描写の美しさにあります。ランドルフ・カーターは確かに非凡な夢想家でした。しかし、夢を見て現実との折り合いをつけることに苦労するという経験は、きっと誰にでも覚えがあることでしょう。その意味では、誰もが一時期、『ランドルフ・カーター』であったと言えるのです。
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』は、読む人が皆「これは自分のことを書いたものだ」と思うと言われていますが、この『銀の鍵』のランドルフ・カーターに強く感情移入する人も決して少なくないはずです。現実に対応するべく、何とか通り一遍の常識人として振る舞おうとしながら、しかしそれに失敗していく姿。その慰めを夢の中に見る描写。これが本当の自分なのか。自分は何を間違ってしまったのか。生き難い人生を、それでもなんとかやり過ごしていこうとする姿には、何か胸を打つものがあります。
そのランドルフ・カーターの世界を反映するかのように、彼が見る夢の描写や、彼の故郷の描写はとても美しいものになっています。あなたがランドルフ・カーターとして物語の世界に落ちたなら、きっとその眺望絶佳を追体験できるでしょう。
また、この物語は、結末に至るまでのフェードアウトが実に見事です。そしてこの結末は、ランドルフ・カーターが唯一救われるエンディングであるとも言えるでしょう。加えてそれはある意味で慈悲深く救済的ですが、また別の意味では無慈悲で救いの無い話でもあります。そして同時に、敢えて言えばエンディングとして成立していないと思われるかもしれないエンディングでもあります。これをどのように捉えるか、そこに何を見出すかによって、この作品に対する評価は大きく変わってくるはずです。
原文の難しさ
ランドルフ・カーターという人物が何に苦悩していたかということ、そしてその彼にとって、夢や故郷がどういったものに映っていたかということが分かれば、原文を文字通りに追うことはさほど難しくないと思われます。
しかし、ランドルフ・カーターのような経験が無いという人、あるいは形容過多気味の描写が苦手という人には、本作は読みづらい部類になるかもしれません。語彙や文法が難しいというよりは、『その表現』が何を表しているのかを感じ取れるかどうかが大事と言えるでしょう。
また、ラブクラフトの文体の特徴もかなり現れています。その意味では、小説というものを読むのに慣れている人、ラブクラフトの文体に慣れている人の方が、この物語を本当の意味で味わい尽くすことができるとも考えられます。
ただ、前述したように、この物語はそうした形容や描写こそが魅力の真髄でもあります(少なくとも私はそう考えています)。だからこそ、ラブクラフトという人間の作家性に挑戦したい、ラブクラフトという人間が何を表現しようとしていたかということを読み取ってみたいという人には、ぜひ読んでみてほしい一編でもあります。
ランドルフ・カーターという人物について
ランドルフ・カーターは、ラブクラフト作品に造詣の深い人にとっては決して無名の人物ではありません。彼を主人公、あるいは主軸として展開する物語はいくつか存在し、派生作品でも彼の名前はよく聞かれるからです。
『銀の鍵』は、そのランドルフ・カーターの顛末を描いた作品ではありますが、発表された時系列で言えば最後の作品というわけではありません。そのため、この作品からランドルフ・カーターを知ったとしても、特に他の作品を読む上での弊害にはならないでしょう。
ちなみにこのランドルフ・カーターは、ラブクラフト自身が自分を理想化して作品の中に登場させたキャラクターであると言われることもあります。それを踏まえた上でこの『銀の鍵』という物語を読むと、その苦悩はラブクラフト自身が感じていたものなのかもしれないと思えてきます。そのような視点で読むことも、きっとこの物語を楽しむ上での新たな着眼点になるはずです。
他の物語との関連性
この『銀の鍵』は、その物語の構造上、他の物語とリンクするところがあります。そうした物語と物語のリンク、その点と点の線上に現れる一瞬の真実は、まさに『クトゥルフ神話』がどういった性格のものであるかを表していると言って良いでしょう。繋がるはずのないものが少しずつ繋がっていくというのは、クトゥルフ神話体系に属する物語を読んでいく中で得られる貴重な体験でもあります。
ここでは、敢えて『銀の鍵』とリンクする物語は伏せることとしましょう。分かった状態で物語を追っていくのもそれはそれで楽しいものですが、忘れた頃に他の作品の中で銀の鍵への言及があるとき、きっとそれは何倍もの興奮をもたらしてくれるはずです。
どうしても気になるということであれば、『ランドルフ・カーター』で検索すれば関連情報が出てくるので、そこから読み進めていけばOKです。しかしご注意を。彼が辿った足跡の先に待ち構えているのは、あくまで銀の鍵で開かれた『あの場所』なのですから。
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