『シャーロック・ホームズを読んでみよう』のコラム、その第3回は、ドイル本人にも傑作とも称されるThe Adventures of the Speckled Bandを掘り下げてみましょう。この物語を芯から楽しむには原文で読むことが推奨されます。なぜなら、多くの翻訳ではこの物語の謎の根幹が損なわれてしまっているからです。今回はホームズが解き明かした謎に迫ると共に、翻訳の難しさについて考えてみましょう。
できる限りネタバレを避けて記事を書いていきたいところですが、どうしても物語の根幹の謎を解説する必要があるため、もしもネタバレを避けて読みたいということであれば、先に翻訳版でも良いので小説の方に目を通しておくと良いでしょう。
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物語のあらすじ
ホームズのもとに依頼人としてやってきたのは、双子の姉の死について真相を暴いて欲しいという女性でした。姉の死に疑問を持ったということは、きっと何か特異なことがあったに違いない。そう思ったホームズは、その依頼人の話に慎重に耳を傾けます。そこから見えてきたキーワード。死の間際に姉が残した最後の言葉。それは、『まだらの——』。
姉の死に見え隠れする『浮浪者のようなジプシーたち』の影。ホームズとワトソンは、自身の身も危険に晒しながら、およそ完全犯罪かと思われた驚異のトリックを暴くこととなるのです。
悩ましい翻訳タイトルとその内容(ネタバレ注意)
このSpeckled Bandは、一般には『まだらの紐』と訳されることの多い短編小説です。しかし、実はこのタイトルを『まだらの紐』と訳すことで、この物語の要素の一部が失われてしまっているのです。ここから、物語の核心に触れていきます。
さて、依頼人の姉が最後に残した言葉は、”Speckled band”という言葉でした。これが犯人の特長を意味するものと、依頼人の女性も理解し、ホームズにそのように伝えています。実は彼女たちが住んでいたのは豪邸で、その敷地内にはジプシー系の浮浪者たちが棲み着いているらしいのでした。彼らの服飾が特徴的であったのことを依頼人は思い出し、”Speckled Band”とは『まだら色のハンカチを身につけた人たち』のことだと一同は考えるのです。つまり、Bandという言葉を『一団』の意味に捉えているわけです。
しかし実際には、死の間際に姉が見たのは『まだら色の紐』でした。つまり、Bandとは『ベルト』や『帯』などに近い意味だったのです。そしてこの『まだら色の紐』とは、実は毒蛇のことでした。このことからこの殺人は、毒蛇を手懐けた彼女たちの義父による計画殺人で、依頼人自身にも危険が迫っているというものだったことが明らかになるのです。
この物語が秀逸なのは、bandという言葉にダブルミーニングを持たせ、途中までは『まだら色の服の人たち』としてジプシーたちに注意を向けておきながら、実際には毒蛇による殺人という全く予想外の着地点が用意されているところにあります。しかしお気づきの通り、日本語でこのタイトルを『まだらの紐』と訳してしまうと、ジプシー集団への注意の向け方が弱くなってしまい、毒蛇の登場のインパクトへの意外性も大きく損なわれてしまうことになります。
『まだらの紐』に学ぶ”洒落”の難しさ
本来であればタイトルに込められていた謎は失われてしまいましたが、しかしSpeckled Bandを『まだらの集団』と訳すわけにもいきません。多くの場合、これを『まだらの紐』と訳しながら、登場人物に『ジプシーの人が頭に巻いているまだら色の紐(バンダナ)のことかも』などと言わせることで、なんとかトリックを成立させています。
このように、英語で掛詞や洒落になっているものを翻訳するのはなかなか骨が折れるものです。原文の意味を損なわないようにしながら、その特長的な表現を別言語に落とし込まなければいけないのです。たまたま近しい単語があってそれで置き換えることが可能である場合もありますが、例えば英語のなぞなぞには日本語にできないものもたくさんあります。次などは、その一例です。
The more you put this in a box, the lighter the box will be. What’s this?
この答えは、この記事の最後にとっておきましょう。それまで、英語のままでちょっとだけ考えてみてくださいね。
物語自体の魅力について
この短編も、シャーロキアンの人々にとっては色々と考えるべき点が多く見られます。その指摘についてはwikiを見るだけでも色々なことが分かるので、気になった方は調べてみると良いでしょう。ここを読んでいる方にはもう問題ないかもしれませんが、wikiでも物語の構造などについて触れられているため、一応ネタバレ注意です。
また、仮にbandという言葉が『紐』に置き換えられていたとしても、そこから毒蛇を連想するのはあまりない発想です。そのため、『まだらの紐』というタイトルからこの物語に入ったとしても、毒蛇が登場することはそれなりに驚きをもって迎えられることとなります。加えてホームズは、この毒蛇の存在を殺人現場の状況から推理しており、その点でホームズの怜悧な推理は健在なのでご安心を。
加えてこの物語には、ホームズとワトソンの信頼関係が伺えるシーンも登場します。危険を目の前にして互いの信頼関係を確かめるそのシーンに胸が熱くなる人も多いはずです。意外性のあるトリック、思い込みを利用した意外な真相、ホームズとワトソンの冒険の臨場感、そして二人の友情の確認。シャーロック・ホームズという作品の面白さが詰まった、まさに一級品の物語であることは間違いありません。
問題の答え
The more you put this in a box, the lighter the box will be. What’s this?
この答えは、’hole’(穴)です。この文章を、「箱に入れれば入れるほど箱が軽くなるものは何?」と読んでいる限りは、答えに辿り着くことはできません。”put a hole in”で「〜に穴を空ける」というイディオムがあることを思い出し、問題文にput “into"ではなくput “in”が用いられていることに注目しなければいけない難問なのです。
この問題を日本語にしようとすると、『箱に入れる』と『穴を空ける』を両立させる、『入れる』と『明ける』の両方の意味がある単語がなかなか出てきません。強いて言えば『追加する』や『加える』あたりだろうか、という気もしますが、ちょっと意味が変わってきてぎこちない感じがするような気もします。
あなたならこの問題を、そしてSpeckled Bandをどう訳すでしょうか。
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