ラブクラフトの著作を紹介するシリーズ、今回は今までに比べてやや長めの短編である『インスマウスの影』(『インスマスを覆う影』とも)を紹介します。ラブクラフト作品の中でも重要な、ある漁村が登場する代表作。重要な設定や退廃的世界観などが表れている、ラブクラフトらしさを存分に感じられる作品です。
インスマウスとインスマスで表記揺れがありますが、これはInnsmouthの読み方が統一されていないためで、こういった表記揺れは例えばCthuluhu(クトゥルフ/クスルフ/クトゥルーなど)にも見られます。それはある意味で、ラブクラフトの作品の特徴でもあり、その表記揺れのために調べることが困難になっていることが、ひいてはその神秘性を高めているとも言えるでしょう。
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あらすじ
その村に近寄る者は居ないと言われている不気味な漁村、インスマス。そこの出身者は年を取るに連れて見た目に異常をきたすようになり、奇病に侵されているとも言われて忌避されていました。しかし昔ながらの街並みが残っていることから、好古趣味の人間には見る価値が残っているという地域でもあったのです。
主人公は気まぐれでこの村を訪れることになりますが、調べてみると奇妙なことばかり。バスは日に2本しか出ておらず、ある宿泊施設では以前に幽霊騒ぎのようなものがあったと聞かされてしまいます。決して長居するべきではないと言われた主人公は午前中のバスでインスマウスに向かうことにするのですが、その先で経験する恐ろしい出来事、そして彼の人生を一変させてしまう一日が待ち受けていることを、オンボロバスに揺られる彼はまだ知らなかったのでした。
原文のインスマウスの影
『クトゥルフの呼び声』や『宇宙からの色』と比べると、主人公がリアルタイムに自分の体験を語るというような文体になっているため、文章中で混乱しやすい要素が少ないと言えます。全てを知ってしまった主人公が回顧するのではなく、何も知らない主人公が少しずつ真相を暴いていくという構成になっているため、主人公の目線と読者の目線が一致するからです。全体的に用いられている表現も比較的平易で、扱っているテーマも難解ではありません。
ただ、原文でやや読解が困難かもしれないのは物語中盤のある老人の話の部分で、その独特な喋り方に戸惑うかもしれません。ラブクラフト作品では、このように物語の鍵を握っている老人や奇矯な登場人物の喋り方に癖があるということがよくあります。こういった部分を読みこなすには、音に注目したり、できる限り文法的に解釈したりすることが有効です。一見すると文法を逸脱しているように見える表現も、実は倒置や省略によってそう見えるだけであるということはよくあります。
物語としてのインスマウスの影
注意:ここからは物語の後半部分に言及しますので、自分で読みたいという方は一度ここで記事を読むのをストップしてください。
この短編の面白さはラブクラフトの作品としては比較的分かりやすいものになっており、例えば『クトゥルフ神話TRPG』などを遊んだことがある人なら、その一種の様式美とも言える流れが感じられるはずです。なんとインスマウスに午前中のバスでやってきた主人公は、午後のバスで出立しようとするも、午後のバスが不調で動かなくなってしまうのです。
こうして以前に幽霊騒ぎがあったホテルに泊まることになる主人公ですが、案の定様子がおかしくなってきます。朝まで待てないと思った主人公はそのホテルから抜け出し、インスマウスから脱出することを考えるのですが、まるで漁村全体が彼を追うようにして追い詰めていくのです。しかもその節々に見え隠れする、老人から聞いた話にもあった『化け物』らしい何かの存在もあり——。
この、辺鄙で奇妙な場所にやってきた探索者がそこから脱出を余儀なくされるという流れは、まさしくクトゥルフ神話TRPGのシナリオそのものであると言えるでしょう。このゲームを遊んだことのある人なら、そのゲームの原形となっている物語をより一層、深く楽しめるかもしれません。
この物語が分かりやすいのは、その後半のインスマウスからの脱出がスリラーやパニックホラーとして秀逸だからでもあります。歯切れの良い文体で主人公を少しずつ追い詰めていくような重苦しい空気は流石の一言。主人公と一緒にインスマウスから抜け出す気分を、きっと味わえるはずです。
他の作品との関連性
『インスマウスの影』では、ダゴン、ダゴン秘密教団、深きもの、ヒュドラ(ハイドラ)、ルルイエ、イハ=ンスレイなど、クトゥルフ神話(正確な意味でのクトゥルフ神話)において非常に重要なファクターが現れる作品でもあります。もちろん、こういった用語について知らないとクトゥルフ神話やラブクラフト作品を楽しめないというわけでは決してありませんが、他の作品との関連性を見出していくのがラブクラフト作品の体系的な楽しみ方である以上、その出典となる本作を押さえておくことは一考に値するでしょう。
そして、クトゥルフ神話を知る人によく言われる『インスマウス面』や魚人面と呼ばれる見た目のキャラクターが登場するのも本作です。実は『ダゴン』という作品は別に存在しているのですが、実際に主人公がそういった『奇妙な見た目の人間(?)』を目の当たりにするのはこの『インスマウスの影』の方です。
加えて、ダゴンと神としてのクトゥルフは決して遠からぬ関係を持っています。つまりこの作品は、直接的な関連だけで『ダゴン』や『クトゥルフの呼び声』といった作品と関連していると言えるのです。また、物語の構造やラブクラフトの思想としては、『ピックマンのモデル』などとも近しいところがあるとされています。
総じて言えば、ダゴンを巡る系譜や人間関係などがラブクラフト自身の言葉で詳しく語られているという意味では、最も『クトゥルフ神話の真髄』に近いものがある作品とも言えるでしょう。総じてラブクラフトのコズミックホラー的な恐怖感、世界観、絶望感、カタストロフィ表現が溢れている本作は、ラブクラフトという作家を理解する上でも、そのほかの作品を理解する上でも、とても重要な意味を持つ物語であると言えるのです。
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